2016年3月30日水曜日

3月の読書

猿之助比叡山に千日回峰行者を訪ねる* 市川猿之助・光永圓道 春秋社 2016
困難な成熟* 内田樹 夜間飛行 2015
雨に泣いてる* 真山仁 幻冬舎 2015
「雁の寺」の真実* 水上勉・司修 朝日新聞社 2004
雁の寺・越前竹人形* 水上勉 新潮文庫 1969
土を喰う日々 水上勉 新潮文庫 1978
オープンダイアログとはなにか* 斎藤環(著+訳) 医学書院 2015
影の中の影* 月村了衛 新潮社 2015
戦争する国の道徳* 小林よしのり・宮台真司・東浩紀 2015
まなざし* 鶴見俊輔 藤原書店 2015

2016年3月27日日曜日

桜咲く

京都で暮らし始めて半年経過
ようやく桜の季節が巡ってきた
この週末は風は冷たかったが、桜を求める人たちで街は賑わっていた

半年過ごしてみて、
京都の人は慎ましく暮らしているな〜、という印象
周りを山で囲まれているから、広がっていきようがない
その中で肩を寄せあって生きている

30年前に比べて、増えたのは高齢者と観光客
着物姿で古都を歩く、という体験型観光の主旨はよい
テーマパーク化したとはいえ、京都はそれに耐えられる
であるならば、もう少しマシな着物を着せてあげなきゃだめだ
薄い生地にインクジェットで印刷したようなぺらぺらな着物を着せたのでは
古都の名折れだ

【千本釈迦堂のしだれ桜】

縮尺

Google Mapで遊んでみた
この2枚の地図が同じ縮尺とは思えない
地中海でかい、というか日本海ってこんなに狭いんだ

古代、民はどのように海を渡ったのだろうか

現代、シリアからの難民がドイツにたどり着くまで、どれだけの距離を移動するのか
その移動距離は、終戦後、満州からの帰還者がたどった距離とどれほどちがうのか

日本列島に原発をプロットしたとき、その密集ぶりは常軌を逸してはいないか

2016年3月25日金曜日

照明

回り稽古の責任者が下見に来てくれたとき
この照明じゃないほうがいいよね、と言われたのが
会場として使う予定の六畳間にぶら下がっている蛍光灯で
先住者が残していた昭和色いっぱいの代物

これまで、六畳間は居間として、受付の場として使ってきたから、
とりあえずo.k.だったが、稽古の場となるとちょっと...という感じ
いずれ取り替えなくてはと思っていたものだが、さてどうしよう

澁谷先生のことを思い出した
大井町稽古場でも使っている強化和紙を使ったランプシェードの製作者
とてもよいものなのだが、はたして在庫はあるのだろうか?
なんせ、十年近く前の話なのだ
思い切って電話してみると、どのタイプのものですかとのお返事
どうやら品物は残っていて、しかも何種類もあるようなのだ

アトリエにお邪魔させていただいた
昭和初期に建てられたという古色蒼然とした日本家屋
通された客間には、大きな丸テーブルに背の低い椅子が置かれていて、
和室もこんな風に使えるのかと驚いた

小ぶりのペンダント型のものを選んで持ち帰った
一旦、六畳間に取り付けてみたのだが、むしろ四畳半の部屋に合いそうなのだ
結局、四畳半にぶら下げることにして、四畳半で使っていたのものを六畳間に移した
これでは、六畳間の照明問題は解決したことにならず、
ひょっとすると、もうすこし大振りのものを澁谷先生にお願いすることになるかもしれない

とても回り稽古のギャラではまかない切れそうもない

 

2016年3月24日木曜日

女子

妹が友人と連れ立ってやってきた
妹といっても還暦間近のオバサンなのだが、
友人と喋っている光景は、ほとんど高校生が二人が喋っているのと変りなく
「女子」なのだ

男二人が京都で待ち合わせして一緒に寺社仏閣を回って歩く
などという光景は空想するのもむづかしいし、想像もしたくないのだが、
その点、女性たちはフットワークが非常によろしい

桜が咲きはじめ
ウグイスの下手なさえずりも聞こえはじめた
暖かくなったことが素直にうれしい

2016年3月20日日曜日

鉄びん

鉄瓶がやってきた
てつびんてつびんてつびんてつびんとつぶやいていたら
白山稽古会の参加者のひとりが「使いますか〜」と持ってきてくれた

ただ中は錆びで真っ赤
はたして使いものになるかどうか
お湯で中のゴミを洗い流し、あらたにお湯を入れてみると、
お湯は濁らず、意外に使えそう
何度かティーバッグを入れて沸騰させたり、米の研ぎ汁をいれて煮てみたり
長年しまい込まれていた風炉釜のときと同じように再生を試みる
暖かくなり火鉢を使う回数は減っていたが、
鉄瓶のために炭をおこした

次はなんだろう
炬燵をあげたあとに置く卓袱台か座卓だな
ざたくざたくざたくとつぶやき始めることにした


2016年3月19日土曜日

距離感

昨日、北山に住みはじめた若い友人が訪ねてきてくれた。「遠いところわざわざ」という挨拶が出るくらい、感覚的に北山はここから遠いのだが、よくよく考えてみると、二子玉川から自由が丘くらいの距離にすぎず、東京にいれば、だれも「遠いところわざわざ」とは言わない。

京都のコンパクトさは、このブログでも書いてきたが、相当遠くまで行っても、歩いて帰ってこられるという安心感はなにごとにも代えがたい。先日も、街中に出るつもりで北野白梅町のバス停まで歩いていったのだが、しばらくバスが来そうもないので、ふらふらと一条通までくだり、そこの商店街を歩くことにした。一条通りの商店街は北野天満宮の門前としてむかしは栄えていたようで、なんと秀吉が開いた北野大茶会(1587年!)のときに出したお饅頭を売る和菓子屋さんなんてのもある。

一条通を突き当りまで行くと、そこから先は中立売通りになる。そういえば、この中立売通り、千本通りから先はまだ歩いてないなと、どんどん歩いて行った。緩やかな下り坂になっていて、途中、骨董屋があったり、小さなお店がけっこうある。堀川通を越え、さらに進んでいくと、楽美術館の表示が現れてきたりして、これまで点として理解していたものが、面として像を結びはじめる

突き当りは京都御所。あれあれ、御所まで歩いてしまったよ、と自分で呆れながら、ここまで来たら、ちょっと池田先生のところに顔を出してみるかと、連絡してみると居るとのことなので、そのまま烏丸通を下って丸太町通りを越える。池田先生のところで一服させてもらい、今度は、夷川通りを東に歩きはじめる。夷川通は家具の町として有名のようだが、よさそうな文机を置いているお店とか、古い建具を衝立に再生して置いているお店とか、はたまた北欧家具のお店とか、楽しいお店ー目の毒でもあるーが軒を並べている。そして、突き当りは寺町通り。

この日の散歩は、ここからさらに、岡崎公園、黒谷とつづいて、最後は昔住んでいた錦林車庫にまでたどりついてしまう。それでも、そこからバス一本で帰ってこられる。戻ってきて、いったいどれくらい歩いたのだろうと、地図で確かめたらなんと12キロ歩いている。靴のすり減り具合がはげいしいわけだ。

昔むかし、京都に住んでいた時には、京都はもっと大きな街だと感じていた。銀閣寺から西陣の方まで自転車を漕ぐと、随分遠出した気分になったものだったのに、こうして再びこの街で暮らし始めると、なんだ、自転車で端から端まで移動できるじゃないかと思う(実際の生活は、半径1.5キロで成り立っているのだが...)。おそらく、関東暮らし30年のせいで、広い範囲を動くことー自力ではなかったけれどーが習い性になってしまっていたからにちがいない。

【丸太町橋から北山を望む】

2016年3月14日月曜日

土を喰う日々

 昨年12月、娘の結婚式に出たとき、新郎の父親が福井出身ということで、福井から親戚が大勢見えていたのだが、「なるほど、こういうのが福井顏なのか」と観察していた。その中に、新聞社だったかテレビ局で仕事をされているという渋い面構えの初老男性がいて、水上勉の顔を思い出した。水上勉は若狭の出身で、一時、等持院で小僧をしていた時期があったらしい。避けていたつもりはないのだが、これまで水上勉の著作はちゃんと読んでない。京都駅地下ポルタの本屋の棚に『土を喰う日々』というタイトルの文庫が置いてあったので、石川行きの旅の伴として購入し、車中読みはじめた。軽井沢暮らしの中での、四季折々の自炊生活を郷里若狭での幼少時代、京都での小僧生活を振り返りながら綴っている。名文である。基盤にあるのが小僧時代の禅寺での体験であるからして、そこらへんの男の料理本とは一線を画す。

水上勉は9歳でお寺の小僧に出されてる。連想ゲームのように井上道隆(どうりゅう)さんのことが思い出された。道隆さんは、整体協会の資料室で仕事をされていた方で、ひたすら晴哉先生の講義のマスターテープを作っていた。いま僕らが聴くことできる晴哉先生の講義テープは、すべて道隆さんの手を経たものである。僕が出会ったときには、すでに70が近かったはずだ。ときどき、裕之先生の講話の中に出てくる、空手の名人だった晴哉先生の妹の連れ合いである。道隆さんも、小学生くらいときにお寺に出されている。いまの常識からすれば、10歳にならない子供を親元から離すというのは残酷に見えるかもしれないが、戦前であれば、食い扶持減らしに子どもを寺に出すことは、取り立てて珍しいことではなかったはずで、子どもたちも、それを運命として受け入れていたはずである。

『土を喰う日々』の中に道元禅師の「典座教訓」が度々引用されている。道元禅師が南宋に渡った直後、港で出会った老僧とのエピソードは有名だ。20代の末、まだ京都に住んでいた頃、今は群馬に住む友人の竹渕進さんに連れられて亀岡の西光寺という小さな禅寺で僧堂生活を経験させていただいたことがある。当時40代だった住職ー田中真海和尚というーは、全国を托鉢して歩き、禅堂を建てたという方で、多くの若者が出入りしていた。その中には、仏教学者となり、今は早稲田で教えている山部真要さんもいた。僕自身は、座禅は苦手だし、結跏趺坐もできない、冬の寒さが苦手。端から出家するつもりはなかったが、禅の精神の一滴くらいは僕の中に入っているのではないか。今は福井の宝慶寺で住職をされている田中老師とは、30年を過ぎたいまでも交流がある。

お寺に手紙を出すときは、〇〇寺山内〇〇様といったように書く。そんな私が等持院の山門をくぐったなかの、いわば「旧山内」で暮らすようになったのは不思議な縁としかいいようがない。もっとも、この家が立っているところは、映画の撮影所(東亜キネマ等持院撮影所)があったところらしく、昭和のはじめ頃、ここを坂妻(田村正和のお父さんですね)が走り回っていた、などと想像を膨らませるとなかなか愉快でもある。

禁糖中は、普段より真面目につくり、真面目に食べていた。それでも。『土を喰う日々』に描かれている料理に向き合う真剣さに比べると、クックパッドだのみの子どもだまし。これ機に、等持院台所生活を修行として捉え直そうと思っている。そういえば、八百屋の店先にはもう筍が並んでいる。

2016年3月10日木曜日

5年

311から5年か〜
まだ半分夢の中にいるようだ
震災のあと、ダン先生に「しょんぼりしてるね〜」と言われ(2011)、
四国遍路を思い立ったはよいが「旅立てず」、その代わりに主夫業をやり(2012)、
翌年、妻が復活したのをよいことに、ドイツ・フランス・ブラジルに大遠征(2013)
帰ってきたと思ったら、義姉が亡くなり、妻が秋田で倒れ、
秋田に通う日々がはじまった(2014)
その年の秋には妻、父を相次いで看取ることになる
同じ年、竹居先生が逝き、小堀さんが逝き、夏にはロイ先生まで逝ってしまった
震災後、いったい何人の身内友人知人を見送ったのだろう
そういう年齢に自分自身が差し掛かっていたとはいえ多すぎないか
昨夏からの引越狂騒曲など慌ただしいだけで平和だった(2015)
そして、僕はまだこうして生きている(2016)

2016年3月8日火曜日

京都買物事情

 京都で暮らし始めてもう半年。最初の頃は、自分のテリトリーを広げようと、徒歩、自転車、バスを駆使してあちこち回っていたが、それも一段落、最近は近所で自己充足してしまい、街中に出かける回数も随分減ってしまった。結局、京都は歩かないとわからない。

 これまで一番ひんぱんに出かけてったところはどこだろうと、ここ半年の行動パターンを振り返ると、コーナンというホームセンターが思い浮かぶ。台所用品から家具を載せるパイル、それにコピー用紙まで生活必需品をちょこちょこと買い揃えていった。そこから少し下がったところにあるとようけ屋山本という豆腐屋さんにもよく行く。普通の豆腐屋さんなのだが、普通に豆腐が美味しい。ここの豆腐はスーパーにも置いていることに気づいたのだが、直接お店で買うほうが楽しい。京都に来てよく食べるようになったのは、油揚げと和菓子だな。スーパーはいくつもある。最初の頃は、一番近いイズミヤが多かったが、コープをみつけ、組合員になってからは、もっぱらそこに通っている。京都にも成城石井があると知った時には安堵したものだが、その比重は下がりつつある。チーズが切れそうになると出かけるくらいのことだ。京都人はパンを好むという話は聞いていたが、実際にパン屋の数は多い。結局、ブリアントというパン屋さんに落ち着いている。

 外食の回数も減ってきた。あちこち食べ歩いても、ひとりごはんは淋しいし、どうせ独りで食べるなら自分で作ったほうがよいという結論になった。禁糖中は100%自炊だったし。それでも、時には人が作ってくれたものを食べたくなる。これまで、三回以上入ったことのあるお店をリストアップしてみると意外に少なくて、3、4軒。家から徒歩5分、龍安寺商店街にある笑福亭といううどん屋さんのことはダン先生に教えてもらったのだが、うどんが普通に美味しい。大正末創業で、かつて井上靖が通っていたお店らしい。京都は洋食屋も多い。itadakiという北野白梅町にある洋食屋のランチはコストパフォーマンスがよい。いつも行列なのも納得できる。ロカンダきだやという若いシェフがやっている町屋イタリアンのお店が、やはり、徒歩5分のところにあって、ここには来客があったときにお世話になっている。月に一回でも彼の料理が食べられれば贅沢な気分になれる。

 上記参照した太字のお店、すべて徒歩圏内にある。あらためて半径1.5キロの円を描いてみると、龍安寺を含む名刹多数、北野天満宮、平野神社もこの円の中に収まる。JR円町駅、花園駅もとりあえず徒歩圏内。京都研修会館も圏内だ。

2016年3月7日月曜日

回廊

 稽古場スタンプラリーを構想あるいは妄想していたことがある→スタンプラリー。去年、回り稽古のアイデアを聞いた時には、このスタンプラリーを思い出した。もっとも、回り稽古は、スタンプラリー案よりシステマティックに構成されていて、16名1グループが6つの稽古場(実際には5カ所)で6人の担当者の稽古に出るというもの。テーマも坐法臥法と定められていて、しかもガイド付である。その成果が、『回廊』という冊子にまとめられているのだが、エキサイティングな内容である。4月からその回り稽古の二巡目がはじまることになった。しかも、関東と関西2グループが同時スタート。同じ面子が一つのグループとなって、あっちに行ったり、こっちに行ったり。想像するに愉しそうな風景ではないか。

























 いまを遡ること十数年、大井町、横浜、鎌倉三稽古場を共通登録にしていた時期がある。鎌倉稽古場の担当者三人のうち、大松さんをのぞき、松井さんが大井町、小杉さんが横浜を担当しはじめたころの話で、担当者も相互乗り入れ、稽古する人も三つの稽古場を行き来していた。大井町には戸村さんもいて、私も片隅にいた。横浜には小杉さんと一緒に中村さんもいたから、担当者の数は全部6人くらい。担当者一人ひとりの働きを担当コマ数をもとに分配し給与に反映させていくのは随分手間のかかる作業だったが、活気はあった。ただ、その後、稽古場の数が増えるにつれて、地区稽古場から本部へという縦の動きが主流になっていき、横の動きは沈静化していった。

 だれかさすらいの稽古人となって、全国稽古場制覇に挑戦してみてください。一年にひとりくらい、そんな若者がいてもいいんじゃないかな。スタンプラリー構想が頓挫したのはスタンプを集めた後の特典について具体案がなかったせいもある。よし、私がスポンサーとなって、全国稽古場を制覇された方に、等持院稽古場無料宿泊権二泊三日分、いや三泊四日分を提供することにします。ただし、それぞれの稽古場で行われている稽古会に参加すること、最初の稽古場から最後の稽古場まで、一年以内で達成すること、という条件を付けます。北は山形置賜稽古場、西は北九州八幡稽古場まで、これは大変だ。挑戦者は「はじめます」という連絡をください。

2016年3月6日日曜日

マリーゴールドホテル2

続編を観にいってしまう私は、もう一度インドに行きたいと思っているのだろうか

2016年3月2日水曜日

30周年

 なんと、今年は、あざみ野通信30周年ではないか。実際には、宇奈根通信→あざみ野通信→dohokids web →sunajiiの公私混同と推移してきたわけだが、ともかく1986年から途切れることなく書きつづけてきたことになる。ミニコミという言葉はすでに死語になっている可能性もあるけれど、30年前、京都から東京に引っ越したあと、主に関西に住む友人たちへの近況報告として始めた。ワープロが普及しはじめた頃で、悪筆が活字に変換されるのが快感だった。もとより、キーボードは得意である。このあたりの経緯はすでに書いている→『復元』。

 たまに備忘録として読み返してみると、中味は同工異曲で繰り返しが多い。人は進歩しないという人間観を抱くようになったのは、自分自身を振り返ってそう思うからである。30年の間に、いったい何万字を垂れ流してきたのだろう。「知者黙」の真逆をいくわけで、きっとこのまま悟ることなく朽ち果てていくのだろうな。僕が父の遺句集を編んだように、USBメモリにテキストデータだけ残しておくので、だれか遺稿集でも編んでみてください。第1号は1986年9月16日発行とあるから、あと半年で30年。

 ともあれ、30年前のいまごろ、僕は前の仕事を辞め、沖縄、台湾を旅し、さてこれから、どのように整体の勉強を進めていこうかと思案していた。東京への引越話が出てくるのは4月になってからのことだった→『引っ越し1986』。当時、身体教育研究所もまだ始まってはいない。いやはや、ぐるーっと一廻りして京都に舞い戻ってきたわけだ。