2014年4月14日月曜日

温故知新

ひさしぶりに竹の動法の稽古をしてみた
稽古場草創期、つまり20年か、それ以前に行われていた稽古である
竹の棒を構えて回転したり、前進したり、といった稽古なのだが、
当時、稽古機会が少なかった私には出遅れ感いっぱいの稽古で、
教える立場になってからも、あまりやってない
というか、手本になるほどの動法を見せられないし、
そもそも何のためにやっていたか理解できてない

竹を構え、手首を順逆に取り、その手首を返すことで体全体を回転させる
やってみて、なるほど、これは肉の身体観から骨の身体観へ切り替えるための
関門であった、というのが分かる
肉の身体観では、手首をいくら返しても、腰につながらず、
結局のところ、筋肉を使って動くことになる
それにしても随分体育会系のノリでやっていたものだ
稽古の帰り、階段がつらくて降りられなかったという伝説もあながち誇張ではない

骨の身体観になっても、感覚を動かすことをしらないと体は動かせない
位置と感覚の固着を外す必要がある
感覚浮遊論と僕が勝手に呼んでいるD先生の感覚論によれば、
感覚とその位置が一致しているとは限らない、というかズレていてあたりまえ
これを理解するまでに随分時間がかかった
いや、まだ理解しているとは言い難い

この感覚を扱う稽古に移った頃には竹動法も下火になっていたから、
竹動法における感覚の扱いといった部分はスルーしたままになっていた
それにしても「腰の感覚はどこに行ってるんだろう?」という問いは、かなり非常識
しかし、やってみると、断然この方が体が動くし、動いた感も半端ない
なによりも動きにキレが出る

「基礎が進化する」というのは、やはり稽古場のあるべき姿を表現した名言である
週末の集注稽古はこれをテーマにして組み立ててみよう