2013年2月27日水曜日

野口晴哉が足らない!

 「野口晴哉が足らない!」と思った。去年の12月、稽古後の掃除で大井町稽古場の畳を乾拭きしていたときの話だ。「野口晴哉が足らない!」って、日本語としてちょっと妙だなとは思ったが、言葉がそのように浮かんできた以上、きっとその通りなのだ。

 といっても、僕は野口晴哉を直接知らない世代。それ故、「野口晴哉を知らない世代は、どのように整体を学び得るのか」を一貫したテーマとしてきた。身体教育研究所とずっと関わってきたのも、そのテーマを追求できる場はここしかないと思ってきたからに他ならない。

 この「野口晴哉が足らない!」と最近のテーマ稽古としてはじめた「活元運動以前」「合掌行気以前」がどう繋がってくるのか正直まだよくわからないのだが、今の段階で、この稽古スタイルにたどり着くまでの経緯を書き留めておこうと思う。このブログで既に書いてきたものと重複する部分も多いと思うが、その点は御容認を。

 なんといっても、去年、4月5月の二ヶ月、稽古から離れていたことが大きい。四国遍路の予定が病院通いに変わってしまったのは致し方ないとして、そこから稽古に戻るまでが大変だった。僕が大井町で稽古を担当し始めたのは1998年の秋からなのだが、以来、14年間、本部の稽古に出て、大井町の稽古を担当するというパターンでずっとやってきた。それが、丸二ヶ月稽古から離れることで、どう戻ってよいかまったくわからなくなってしまった。それまでなら、公開講話などを手掛かりにして、稽古を組み立てていたののだが、それもできない。途方に暮れた。

 たどり着いたのが、坐法、臥法といった基礎稽古。とにかく出発点に戻って、そこからやるしかない。そんな感じで、夏くらいから、「坐法臥法」「合掌行気と内観的愉気」などをテーマ稽古と称してやりはじめた。はじめてみると、何故これらが基礎と呼ばれてきたのかがわかりはじめた。つまり、基礎というのはなんでも盛り付けることができる大きな「器」なのだ。合掌行気1988と合掌行気2013では、かたちは同じ合掌行気なのだけれど、その内実がまるで違う。25年の間に産まれた知見体験をいかようにでも盛り込むことができる。「基礎が進化する」の意味が腑に落ちた。

 合掌行気や活元運動にたどり着いたきっかけはいくつか挙げることができる。一つは、ある活元会のメンバーを対象に定期的に稽古会をやらせてもらった経験。もうひとつは、海外での稽古会。活元会の人たちは、稽古会は毎回やることが違っているから敷居が高いと仰る。この感想を聞いた時には、その意味するところを理解できなくて、「え〜」っと思ったものだが、ある一定のプロトコルに沿って会が進んでいくことへの安心感、同じことを続けて行くことで育っていく微かな変化に対する感受性というものは確かにある。多方向から切り込み、即興性を重視する稽古会のスタイルだって、ひとつのプロトコルであるに相違ないのだが、稽古場25年の中で、それまでの整体協会にない文化を作ってきてしまったらしい。

 海外で稽古会をやってみると、ある一定のプロトコル=様式の持つ力を痛感せざるを得ない。指導室もない、指導者もいない環境で暮らしながら、活元運動と愉気だけを頼りに生活している人は実際に大勢いる。その覚悟は間違いなく大きな力になっている。だから、例えば年一回しかない稽古会でなにを行うかというのは大問題。そんななかで、整体協会の伝統として伝わっている活元運動、合掌行気を行うというのは理にかなっている。一方、整体協会本体は活元運動を、身体教育研究所は動法を、という棲み分けでやってきたから、活元運動にまったく触れることなく何年も稽古を続けているという人たちも増えてきた。「本部では活元運動ってのをやってますから、行って体験してみて下さい」という紹介のしかたもありだと思うのだが、できれば稽古として自家薬籠中のものとしたい。

 ただ、活元運動を「稽古」として提示しようとすれば、準備運動の説明のしかたひとつとっても従来と違ったものにならざるを得ないし、それによって、活元運動の新たな可能性を探求できるはずだ。そんなことを考えながら、1月から「活元運動以前」「合掌行気以前」をテーマ稽古としてやり始めた。稽古の進み具合は遅々としたものだけれど、手応えは感じている。