2012年12月31日月曜日

もっと深く

深さなくして広がりはなく
基礎なくして応用もなし

カタなくして感応なく
他者なくしてカタは生まれず

我、還暦に至りて、ようやく整体の道に入る

2012年12月29日土曜日

年の瀬に

「20年前に四国を41日かけて歩きました」
最近大井町稽古場に通いはじめた方の口から飛び出てきた言葉
嗚呼、一年の締めもやはり四国遍路か!
その方、真言宗のお坊さんだから、不思議はないのだけれどね

なんで四国遍路を思い立ったんだろう
年が明けてからの話で、おそらく一年前の今頃はまだ
四国行の気配はまったくなかったはず
謎だな〜
たしかに、還暦の壁というか、稽古の壁にぶつかってたことは間違いないのだけれど

空海って、「超人」というかマッチョなイメージがあって
どちらかというと苦手
真言宗との縁も薄く、高野山に行ったこともなく、川崎大師すら行ったことがない
京都に住んでいた頃、一時期、東寺の近所に仕事場があったくらいか

結局、四国には旅立てず、
主夫生活を経て還暦を迎え、そして稽古復帰、みたいな一年だった
ちょっとだけタイに行ったりして
そうそう、チェンマイで稽古会を企画してくれた方は、
「御大師さまが遣わしてくださった」と意味不明のことを口走っておられましたが

今年一年、ずいぶん長い旅をしてきた
そんな印象
来年こそ四国の土を踏みたいですね

連座

 この春、専業主夫をやりながら、どう稽古復帰するか思案していた頃、Sさんから、「僕のやってる集団稽古に来ませんか」との誘いを受けた。連句めいた、あるいはお茶席のような稽古をやっているという話だけは聞いていたのだが、参加したことはなかった。四人一組で、ひとりが伏臥し、他の人は内観しながら、順番に気になったところに触れていく。たったこれだけ。

 ところが、この稽古を通して出会った「受け身の参加感覚」によって僕の整体観はひっくり返されてしまう。それくらいのカルチャーショック。同じ俯せの体勢とはいえ、操法を受けるときに出現する感覚とは別物なのだ。と同時に、「操法者」という存在の意味をはじめて理解した。だから、「稽古場でやろうとしてきたことのひとつの到達点」と表現した。

 連句に引きつけると、俯せに寝る人が「発句」の人で、最初に手を当てる人は「脇」を付ける人なのではないか。僕はこんな風に理解した。そうして、人が入れ替わるごと、世界が展開していき、やがて終わりがやってくる。この時には、まだ、この稽古法に名前はなく、「連座」と名付けられたのは、もう少し後のことではなかったか。連座という言葉から連想されるのは「連座責任」とか必ずしもよいものではない。それでも、何度か、この稽古に参加してみて、やはり「連座」だなと思う。

 先日、連座を言葉にするとどうなりますかとSさんに訊いてみた。このときの会話をヒントに自分でも連座の稽古をやってみることにした。中断していた連句の勉強も再開することにしようか。

2012年12月28日金曜日

活元運動以前

 「稽古としての活元運動」で書いたように、活元運動の「稽古化」に手を着けた。今月、「動法としての活元運動」とタイトルを付けた稽古会をやってみたのだが、新しい発見もいくつかあって、先につながりそうな気配。実際には2時間の稽古のうち、1時間45分を「活元運動以前」のところで費やすことになってしまった。活元運動ははじめてという参加者も何人かいたのは意外だったけれど、導入としては、よかったのではないか。来期、この稽古を「合掌行気と内観的愉気」とセットで大井町の定例稽古に組み込むことにした。ただ、このタイトルだと無理やり二つの単語を同居させた感じになってしまうので、稽古名は「活元運動以前ー稽古場的活元運動の可能性」にします。従来の活元運動の導入のしかただと、どうしても人に触れるという行為が安直になってしまう傾向がある。それを避けようとすると、カタの問題に触れざるを得ない。組稽古がデフォルトになるから、まず「触れかた」から稽古していくしかない。だから、やはり「活元運動以前」なのだ。

12月の読書と今年のベスト5

幕が上ル 平田オリザ 講談社 2012
驚きの介護民俗学* 六車由美 医学書院 2012
下山事件* 柴田哲孝  祥伝社 2005
知事抹殺* 佐藤栄佐久* 平凡社 2009
検察崩壊* 郷原信郎 毎日新聞社 2012
負け犬他流試合* 酒井順子 文藝春秋 2005
日本の歴史を作った森* 立松和平 ちくまプリマー新書 2005
ラジオ福島の300日* 片瀬京子とラジオ福島 毎日新聞社 2012


【2012ベスト5】

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか* 増田俊也 新潮社 2011
ピダハン ダニエル・L・エヴェレット みすず書房 2012
困ってるひと 大野更紗 ポプラ文庫 2012
短歌の友人 穂村弘 河出文庫 2011
脱出記*  スラヴォミール・ラウィッツ ソニー・マガジンズ 2005

<番外>
争うは本意ならねど 木村元彦 集英社インターナショナル 2011
たった独りの引き揚げ隊 石村博子 角川文庫 2012
知事抹殺* 佐藤栄佐久* 平凡社 2009

2012年12月21日金曜日

スキマ

チェンマイの旧市街を囲むように環状道路が走っている
ところどころに信号はあるが、数は少ない
車がビュンビュン走っていても人はどんどん道路を渡る
狭いとはいえ4車線
(tuktukの映像↓はこの環状道路のもの)
自動車、バス、トラック、バイクなどなど、いろんな速度で吹っ飛ばしている
交通法規に従順な住民が住まう国からやってくると最初は戸惑う

動いている車をみていると手遅れになっていつまでたっても渡れない
スキマをみるのだ
そうするとスイスイと渡れる
稽古の身につき具合を確かめるため
たまに、こういう経験をしに海外に行くのも悪くない

日本で実験するとすれば、渋谷のスクランブル交差点くらいか
ただ車より人のほうが怖い

2012年12月18日火曜日

四字熟語

筆動法。ときどき思い出したように四字熟語辞典を引っ張りだしてくる。言葉を探す。探すというより、辞典を後ろ手で開き、ページをめくり、指で位置を一点定め、そこにある四字熟語を書いてみるという趣向。一昨日の稽古で出てきたもの。「波瀾万丈」「縦横無尽」「精励恪勤「羽化登仙」。


「波瀾万丈」は私。12月も半ばを過ぎると、一年を振り返るモードに少し入ってくる。波瀾万丈とはちと大げさ過ぎるが、でも、これでもかこれでもかというくらい、事件勃発の一年。年のはじめに「四国巡礼」宣言したことが遥か遠い昔のことのようだ。「縦横無尽」は筆動法初体験のHさん。筆を持つのは小学生のとき以来とかーこういう人は結構多い。はじめてにしては、いい線が出てる。若いくせに(年寄りの口癖ですw)頑固なHさんに縦横無尽さが出てくれば、これはもう鬼に金棒。「精励恪勤」はSさん。これは、「仕事に力を尽くし、怠らないこと。精力を傾注して励むようす」の意とある。「恪」には慎むという意味がありとも。ご自分で納得されていた様子。「羽化登仙」は再高齢のTさん。筆動法の稽古だけにやってくるという不思議な方。でも十年もやっているとT風というのがにじみ出てくる。字面をみて、あれ解脱しちゃうのかしらと、一瞬心配しちゃったが、このカルミはTさんにぴったり。


筆動法の稽古はやっていて楽しい
「順逆」の意味を今更ながら発見!
来年も月1回程度の割合でテーマ稽古として筆動法の稽古は続けます

2012年12月15日土曜日

 先月末の大井町大掃除。若手中心に8名程が集まってくれた。手分けして、稽古場を掃除していく。今回、僕はひたすら一階の木の壁を空雑巾で拭いていた。大井町稽古場は木が潤沢に使われている建物で、一階の稽古場部分の壁面の大半は下から上まで木が貼られているから、面積としては相当なものである。脚立の上に立ち、壁の上半分を拭き、脚立から降りて下半分を拭くという作業を延々とやっていた。結局、ひとりで壁の8割くらい拭いたのではないかな。一見綺麗にみえる壁面も拭いたあとで雑巾をみると確実に汚れている。筆動法のときに、作品を押しピンで壁に留めてきたから、その小さな穴も無数にあいている。ちょっと申し訳ない気持ちになった。

 この稽古場も来年で20年になるのだな。僕自身が関わるようになって十年を超える。秋のはじめくらいに、壁にずっとかかっていた、嘉山たかねさんの絵がずいぶんくたびれてるように見えたので、一旦おろした。どういう理由でこの絵が、稽古場の壁にかかることになったのか、その経緯はよくしらない。当時、絵と書をミックスした創作活動を盛んにやっていた嘉山さんとも随分会ってないのだが、どうしてるんだろう。たかねさんの絵は陽の差し込む二階に置いておいたら、日の光を浴びて少し元気になったような気がしたので、元の場所に戻すことにした。絵の表面を指で少しこすってみたら、思いの他よごれていたのに驚き、ティッシュペーパーで丁寧にその汚れを落としていったら、また一段と力が蘇ってきた。

 大井町稽古場は電灯がやたらたくさんぶら下がっている。ずっと白熱電球を使ってきたのだが、その電球がまたよく切れる。気のせいかもしれないが、電球がよく切れてしまう担当者というのがいる。過剰に電気を帯びる人間っているのか? ただ単に温度差が大きいのが理由かもしれないが、電球の買い置きをしておかないと、いざという時に対処できない。白熱電球は少しずつLED電球に替えてきている。それでもまだ、白熱電球の方が多いくらいか。ただ、LED球はまぶしくて、光が直接目に入る位置には使えない。ずっとほっとらかしにしていたスポットライトにLED電球を入れてみることにした。LEDはスポットライト向けである。そのスポットライトを元に戻した絵に向けてみたら、なかなかよい。先日、はじめて大井町稽古場に足を踏み入れたひとが、「なんとアートなスペース」と感心していたが、たしかに、ギャラリー風である。そうなると、室内の暗さを強調する要因のひとつである黒壁もよく見えてくる。現金なものである。

2012年12月10日月曜日

稽古としての活元運動

 活元運動は僕にとっての宝物である。そもそも、整体に道に入るきっかけになったのも、活元運動、殊に相互運動における「感応」というものに惹かれたからだ。

 活元運動はいうまでもなく整体協会の宝である。その宝物をひとつの入口にして(あるいは踏み絵にして)活動しているわけだ。活元運動で検索すればおびただしい件数がヒットするし、それはkatsugen undoで検索しても同じである。ここ50年の整体協会の活動を通して、活元運動はひとり歩きをはじめ、この単語が世に浸透するに従い、それがどのような起源をもつか誰も気にしなくなった。

 稽古場ができた当初(うわっ24年前だ!)、活元運動も稽古種目に含まれていて、一日4コマ(当時は一日4コマが標準だった)すべて活元運動という日まで設定されていた。その頃だけで、もう一生分の活元運動をやったぞ、というくらいやり込んだ。その後、諸事情あって稽古種目から外されていき、活元運動を知らない稽古者も増えてきた。

 数年前、活元運動の会を主宰しているグループに頼まれて稽古会をやっていた時期がある。その人たちによると稽古会は毎回やることが違っているので難しいという。たしかに、毎回同じプロトコルに沿って会が進んでいく活元会に参加している人たちにとって、手を変え品を変え、いろんな角度から切り込んでいく稽古会のアプローチは面倒だと感じるらしい。彼我の間に横たわっている川はなかなか深い。

 活元運動を稽古化するのは、なかなか難しい。つまり、活元運動に対し、誰もがある「イメージ」を抱いていてーそれまでの活元運動体験のなかで形成された記憶ーそれからなかなか離れられない。僕自身そう。それでも、時折思い出したように「稽古としての活元運動」を試みてきた。要は、準備運動の三つの動作を動法的に解析してできるだけ丁寧に行うというものだったのだが、これだけでも、活元運動の質は大きく変わる。でも、継続的な稽古に加えるにはもの足りなくて、それっきりになってしまっていた。

 ここ数年の稽古の進化、特に接触におけるカタの問題ー稽古における永遠のテーマですねーをとりいれて、活元運動の稽古化に今一度取り組みはじめている。まだ数回試みた段階なのだが、今回の手応えはちょっと違う。週末の集注稽古もこのテーマでやってみようかしらね。

2012年12月9日日曜日

邸宅

そこそこ立派な家に住んでるんだろうなとは思っていたが、友人宅は想像を超えていた。これは博物館じゃないか、という代物。東南アジア研究者というより、ただのコレクターですね。その収集品を収める器としての家。それら収集品が調度品として、なかなかセンスよく並べられている。さすがイギリス人。この家に泊まること自体が「経験」になるくらい。僕とはベクトルとして真反対を向いている。人のお家だから勝手に紹介するわけにもいかないので、外観と私が泊めてもらった部屋の写真だけのっけます。







帰ってきたら、いきなり仕事モード突入で、タイの記憶が飛んでっちゃいそうだ。それにしても、なぜタイだったのかな〜。「タイ再び」シリーズはひとまずこれにて終了。

2012年12月6日木曜日

tuktuk

チェンマイ







2012年12月4日火曜日

稽古会

稽古会の様子がUPされています
http://www.studio-ring.net/linkpage/webLog_f/02dec2012.html

2012年12月3日月曜日

方位

今回のタイ旅行に持参したiPod touchも乾電池駆動のデジカメもお遍路用に用意していたものであることに気がついた。ひょっとしたらと思って、横浜とチェンマイを直線で結んでみた。帰国したらちゃんと確かめたいと考えているのだが、その線は、四国の上を通っている。どうやら四国遍路の延長線上、或いは代わりとして、今回のタイ旅行はあるらしい。方位学とか興味をもったことないのだけれど、この符合には吃驚だ。


*帰ってきて、横浜ーチェンマイで結んでみたら、四国の北の端(高松、今治あたり)をかすめるようです。12/5

2012年12月2日日曜日

チェンセン

ラオスとの国境の町チェンセンを案内してくれるという。歴史の専門家のガイド付きツアーとは贅沢の極み。メコン川も見られる。ゴールデントライアングルという名称はもちろん知っていたが、チェンセンに着いて、高台に登り、ここがゴールデントライアングルですと告げられた時には、ちょっと拍子抜けした。もっと山を踏み入った少数民族の住むエリアのことを想定していたのだ。たしかに眼下見えるのはミャンマーでありラオスであった。ミャンマーの土地にはカジノがつくられ中国人も川を下ってやってくるという。タイ人にとっては、文字通り向こう岸にすぎず、実際客を乗せた小舟が頻繁に出入りしている。



Hall of Opiumは王室関係の財団が運営するアヘン博物館。古代から現在までアヘンがどのように使われ、どのような歴史をたどってきたかが、ジオラマ、映像を駆使して多面的に展示されている。当然、東インド会社の行っていた三角貿易のはじまりからアヘン戦争に至る部分は大きく扱われている。アヘン戦争が1832年で明治維新が1868年。明治維新をどう評価するには、アヘン戦争がどのような戦争であったか、まず知る必要がある、と今更ながら思う。アヘンと軍隊は深く繋がっている。ガイド役のイギリス人である友人は、ベトナム戦争時の米軍、CIAのアヘン取引への関与がどうして触れられてないのだと不満げであった。



ロイカトーン

あてがわれた部屋の窓から空をながめていると、赤い点がいくつか光っている。タイでは星は赤く輝くのか。火星ではない。その赤い点はゆっくりだが動いている。しかし飛行機ではない。とうとうUFOと遭遇してしまったか?

すっかり暗くなってから、お祭りをやっているからと連れていかれたお寺で、ようやく赤い点の正体が判明した。紙で作った熱気球である。直径1メートル弱、高さ1.2メートルくらの上部が閉じられた円柱状の和紙の下部に、ドーナツ状の燃料を針金で固定し火を点ける。その炎で熱せられた空気で舞い上がるという仕組み。

さらにこの熱気球に導火線つきの花火を結びつけ、舞い上がった時点で着火し、光音煙を発生させる。水に舟を浮かべる精霊流し(これもやっている)の気球ヴァージョンである。気球は次から次へ打ち上げられ、編隊を組んで上昇していく。随分賑やかな精霊流し。燃料が燃え尽きる前に民家に着陸し、屋根を焦がすこともあるらしい。

この祭りのことをロイカトーンというそうだ。

2012年12月1日土曜日

チェンライ

チェンライに無事到着。空港に現れた友人の車はメルセデス。余裕の隠居生活だな。市内の名所を案内してくれる。といっても、特別なものがあるわけではない。Mae Fah Luang公園とホワイトテンプルの名で知られているワットロンクン(写真は帰国後にupします) 。前者は北部タイからミャンマーに広がるラナ地方の文化財を集めた公園・博物館。後者はビジネスマインドあふれるアーティストー村上隆を思い起こさせるーが再建したテーマパークのようなお寺。両者とも、まあ普通の観光スポット。



昼食に連れてかれた自然食のレストラン。野菜の炒め物と魚のフライというごく普通の料理が出てきたのだが、これが美味しかった。食べ終えた時には長旅の疲れが抜けていたのには自分でも驚いた。それとも女主人がチャーミングだったせいか。友人が「seitaiの先生」と私のことを紹介してくれたのだが、seitaiという言葉をどこかで聞いたことがあるようで、いたく興味をもたれてしまった。「自己完結的でない調和」という話も通じたようだ。

旅先でのブログ更新って無理ですね。しかもiPodでは。今日で三日目なのだけれど、ここに書いたのは、初日の前半分ですw。