2012年11月24日土曜日

ぼくが企画書を書けない理由

発信力の時代だそうで、外に向かって発信していかないと生き残れない、と皆が言う。うん、そうかもしれない。大井町稽古場は存亡の危機にあるし、ここはひとつ自分たちに何ができるか企画書を書くべきでしょうとパソコンに向かうのだが一向に筆が前に進まない。

これまで頼まれて外で稽古会は何度もやってきているはずなのに、いざ積極的に外に向け発信しようとすると、どう書きはじめてよいかわからない。生きているということは身体と共に生きているということで、つまり、僕らの稽古は万人に応用できるはずのものだし、実際、普通のお母さんたちから芸術家まで幅広い層を対象に稽古会を開いてきた。

ところが、いざ「発信」しようと試みると、そこで止まってしまう。僕の文章力に問題があるのかなあとも思うのだが、それだけでもなさそうだ。よく考えてみると、頼まれて稽古会をやるという場合、その時点である程度参加者の層が決まっていて、その顔を空想しながら稽古を組むという手順を踏んでいる。つまり、あらかじめ対象が想定されている。あと、もう一つは、ことのはじまりは常に受身なのですね。これって結構、僕らの存在理由にかかわる根源的な問題のような気がする。

実のところ頼まれ稽古会というのはなかなか楽しい。「こういう人たちを対象にした会をやりたいので稽古考えて下さい」という話を持ち込んでくるのは多少なりとも稽古に触れたことがある人なのだが、「じぁあこんな感じでやりましょう」と応じて、いざチラシが刷り上がったのをみて驚く。僕との話やメモ書きをもとに出来上がったものであるはずなのに、相当にズレているケースが結構多い。この企画者の曲解というか誤解のしかたというのが素晴らしい。ある時など、若い母親の会だというので出かけていったら、会場入口に「整体で美しくなる」と大書された看板が立っていた。いったいどこから、こういう題が出てきたのか謎である。で、あの看板に偽りありかというと、二時間びっちり動法の稽古をしたのだが、皆さん美しくなって帰っていかれた。ただ僕らの理念を理解してくれたかどうかは別次元の話である。

そうか、汎用的であるが故に、そして受身である故に、企画書という形に向かって行かないのだ。でもこれって言い訳にしか聞こえないだろうな〜。それが問題だ。